「船橋中学校」タグアーカイブ

scene-chapter1-22

chapter1-22
我々バレーボール部の必殺技といえば、それはやはり『フライングレシーブ』であろう。
特に私のような小柄で軽量級の選手には、これ以上の技はないといって過言ではない。
何事にも形から入る私は、当然のごとくシッカと研究し、スルドい『フライングレシーブ』を習得するため、あらゆる努力を惜しまなかった。
習得できたとなると見せたくなるのが人情だ。
私は何かといえば『フライングレシーブ』を連発するようになった。
体育の授業のバスケでは、ボールがコートから出そうになると、フライングレシーブでボールをコートの中に戻した。
女子から歓声があがった。
私はタイヘン満足した。
走り高跳びもフライングレシーブで跳び、自己記録を更新した。
男子からドヨメキがあがった。
私はタイヘン満足した。
走り幅跳びはフライングレシーブで跳ぶと距離が損することを知った。
男子も女子も失笑した。
私はタイヘン恥ずかしかった。
50m走ではフライングレシーブでゴールしようとしたが怖くてできなかった。
これはやらなくて良かった。
体育の授業で、フライングレシーブを連発する私を、体育の先生が堪りかねて、「これ以上やったら張っ倒す」と低い声で囁いた…。
この体育の先生はバレーボール部の顧問監督で、とてもデンジャラスな先生であったので、その時私はチンモクし、フライングレシーブは控えようかなぁと思った。
いつだったか、私は授業中に、校内放送でこの先生に名指しで保健室に呼び出されたことがある。
何事かと急いで行ってみると、先生は保健室で焼き鳥を食っていらっしゃって「この焼き鳥美味いぞ、食え!」とおっしゃった。
私は焼き鳥を食った。
とても美味しかった。
先生の傍らには透明の液体が入ったコップあって、サスガにそれを私には薦めなかったが、先生はグビグビそのトウメイなエキタイをお呑みになっていた。
先生はご機嫌だったが、私は恐れオノノイた。
そんなこともあって、私は意味もなくフライングレシーブをしてはイケナイと心の底から反省した。
しかし、私のフライングレシーブは、意外な展開を見せた。
この年(1969年)10月からTVドラマ『サインはV』が放送スタート、うちの体育館がロケに使われたりして、船橋中学校はにわかにバレーボールブームとなったのである。
で、私のフライングレシーブ…。これが口コミで広がり、私はちょっとした有名人になったのである。
ナンにでもいえることであるが、シツコクやり続けるということは大事なのである。
挙句に私のフライングレシーブを観たさに女子が部活を見学しに来くるようになった。
お箸事件の後、私はゴキブリのように嫌われていたが、名誉を挽回する絶好のチャンスに巡り会えたわけだ。
私は『 機を見るに敏』というモンゴンをこの時初めて知った。
また私は『 千載一遇』というモンゴンをこの時初めて知った。
続く

scene-chapter1-21

この日以来、私は変わった。
カッコつけて云わせて頂くと『男』としての第1歩をフンだのである。
まず言葉づかいが変わった。
『ボク』が『俺』になる。
『お母さん』が『オフクロ』になる。
『ご飯』が『メシ』になる。
『お友達』が『ダチ』になる。
『お巡りさん』が『マッポ』になる。
そういえば、
私らの頃は『不良』のことを『ヤンキー』とは云わなかった。『ツッパリ』と云った。
船橋中学校は、というより世田谷区には比較的ケンゼンなショーネンが多く、キケンな『ツッパリ』はあまりいなかったように思う。
これが台東区、荒川区、北区、江東区といった方面は当時、たいへんデンジャラスで、校内の廊下を生徒が先生を追いかけ回したとか、アッチの学校がコッチの学校に殴り込みをかけたとか、コッチの学校がアッチの学校に火をつけたとかブッソーな噂はキリがなかった。
だが、部活にハマっている私にはそんなことは関係なかった。
なぜなら私は確変したからである。
10回もできなかった腕立て伏せや、腹筋運動が、トツゼン出来るようになったからである。
私はこの確変が続けと願い、そして続くよう自主練を実行した。
朝起きると、
アパートの廊下で腕立て伏せ。
学校にゆくと、
休み時間に腕立て伏せ。
昼休みに腕立て伏せ。
そして部活が終わって家に帰っても腕立て伏せをした。
結果、腕立て伏せ50回、腹筋50回は余裕で出来るようになった。
船橋中学校バレーボール部は部員数約30名、我々新入部員は当初10数名いたが、1ヶ月で8名にまで減ってしまった。
腕立て伏せや腹筋などのトレーニングに、ついてこれないショーネンもいるのである。
だが私は確変したおかげでついていけた。
なぜ確変したのか?ソレはよくわからない。
が、ヒトというのは、聞くところによると、
たまぁ~にだが、トンデモない、意味不明の、説明のつかないコトをしでかす『いきものの』ようである。
そしてヒトは誰でも、一生の内1~2度は確変するようである。
また、私にとってシアワセだったのは、
それは頑張ると、ホメてくれる先輩や、仲間がいてくれたことである。
私は東京に転校して以来、仲間外れが続き、東京が嫌いになっていた。
だが、中学に上がってこの部活の体験で人生が変わった。
東京が好きになった。
そして何よりも人が好きになった。
私は救われたのである。
続く。

scene-chapter1-19

chapter1-19
私はなんと腹筋50回もクリアしてしまったのである。
ここは大いにドヤ顔したいトコロだが、それどころではなかった。
私の体と精神はドコか遠いトコロに行ってしまったようで、ホボ幽体離脱状態になっていた。
腹筋のあとも、体育館の壁に背を付けて、ヒザを90度に曲げ、なおかつ両腕を『前に並ヘ』して、数を50まで数えるというカコクなトレーニングをしたような気がするがよく覚えていない。
だが、最後に『校門まで駆け足往復リレー』というのが行われたのは忘れもしない。
「先頭は立石、いけ〜!」と、飯田先輩は、後に私の大親友となる立石君に、先頭スタートを命じた。
「次は山路!待機!!」と、次は私の番である。
この頃の私どもにはユニフォームなどあるわけもなく、胸にマジックで名前を書いた体操着を着用していた。
飯田先輩がケイカイに我々一年坊の名前を呼べるのはここに起因する。
一人だけその体操着に名前を書いてない輩がいた。
私はモーローとした中で「コイツは呼ばれないのかな…?て、ことは走らなくていいのかな…?」
などと意味不明なことをブツブツ言いながら、生まれて初めて『神様』と、『仏様』に何事かをお願いした。
何をお願いしたかは覚えていない。
立石君はびしょ濡れになって戻ってきた。
次走の私も往復200mほどの距離を必死に走リ、戻った…ような気がする。
このリレーは10数人いる一年坊を2つに分けて競い合うのであるが、アンカーまで走り終えると、また先頭に戻って繰り返し、これを残り少なくなった部活時間いっぱいまでやるのである。負けたチームにはペナルティがあった。
私は『無我夢中』、というモンゴンをこの時初めて知った。
そして『為せば成る』、というモンゴンもこの時初めて知った。
続く。