アニタ・オデイ
1919年10月18日生まれ。
世界的なジャズ歌手のなかでは最も個性的な存在でした。
声域はそんなに広くないうえに、少しかすれた歌声は、ほかの正統派歌手のなかにあってはかなりの異端児。
しかし、それゆえのビロードを思わせる声質や抜群のスィング感によって、世界中をとりこにした存在です。
みずからを「歌手」ではなく「ソング・スタイリスト」であると言っていた彼女の口から生まれてくる歌は、まるで管楽器のような憂いをおびていました。
「ジャズ界のイザベル」と呼ばれていたアニタはまさに「魔性」を感じさせる存在だったのです。
意外にも子どものころのアニタは、歌よりも運動のほうに才能を発揮し、プロのウォーカソン競技者として数々の大会に参加する一方、その合間をみて歌やダンスで小遣い稼ぎをするような生活でした。
20才のころ、シカゴのクラブにシンガーとして雇われたのをきっかけに、「歌手」としての才能を開花させます。すぐに、ロイ・エルドリッジとともに歌った「Let Me Off Uptown」などがヒットし、ダウンビート誌の「ニュースター・オブ・ザ・イヤー」にも選ばれるほどでした。
当時のジャズ歌手の多くがそうであったように、彼女も楽団の専属歌手としてキャリアを積み、ジーン・クルーパやウディ・ハーマン、スタン・ケントンの楽団を渡り歩きました。
25才のときには「ベスト女性バンド・ヴォーカリスト」に選ばれています。
このころにヒットしたのが「And Her Tears Flowed Like Wine」、ミリオンヒットでした。
30才を越えたころ、有名プロデューサー「ノーマン・グランツ」と出会い、次々とアルバムを発売、29才のときには「ニューポート・ジャズ・フェスティバル」に出演、この時の様子が、映画「真夏の夜ジャズ」に描かれています。
そんな彼女でしたが、ジャズ演奏家の多くがそうであったように、麻薬との関係は避けて通れませんでした。
47才のときにはヘロインの過剰摂取により、生死をさまようことになります。麻薬から抜けだそうとした彼女は、反動でアルコール中毒になり、一時的に活動中止を余儀なくされます。
しかし51才のときに奇蹟のカムバックを果たし、レコード会社や中古レコード店の設立など、ビジネスにも手腕を発揮しました。
86才で最後のレコードを発売した直後、87才の誕生日の一ヶ月後に心不全により死去。
最後まで歌手人生をまっとうしたひとりでした。
BGM
Honeysuckle Rose
I Can’t Get Started