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或る日の情景~母との情景1

母との情景1


平成30年2月5日0時35分。
母が死んだ。
享年87歳だった。

母は、とても『キョーボー』で、『ランボー』で、しかも『テキトー』で、たいへん『ホラ吹き』な女性であったが、私のことを一番愛してくれた女性だった。

若い頃は手がつけられないほどの『じゃじゃ馬』だったと亡父が云っていた。

壮年の頃、つまり私が小学生の頃はよく殴られたり蹴られたりした。キック力はジンジョーではなく、その頃流行ったキックボクシングの必殺技『真空飛び膝蹴り』をTVを観ながら研究していたようだった。

晩年は、認知症のせいで『徘徊』して世間を騒がした。
スーパーが好きで、殆ど毎日スーパーを歩き回っていた。
夕方一旦ひとり暮らしのアパートに帰宅するのは、私が夕食を作るか持ってゆくのを部屋で待機し、大人しくしていた風をよそおうためで、夕食が終わり、私が帰宅すると夜の徘徊(コンビニ巡り)がスタートするのだった。
10日に一度は迷子になって、コンビニの店員さんから連絡を受け引き取りに行った。

ある猛暑の日に徘徊の途中で倒れて警察沙汰になった。
意識不明のまま救急車で病院へ。
先生からは覚悟してくださいと云われたが、母はシナなかった。
意識が戻ると母は施設に入れてくれと私に懇願した。
今後一切お金のかかることはさせないから。。。
最後の頼みだからだと、涙ながらに私に訴えた。
そして今後のことを決めておきたいと云った。
あとでゆっくり話そうといってもきかなかった。
この時が母と最後に交わした『真面目な』会話だった。
それはまぎれもなく『母の遺言』だった。

それからまもなく母は埼玉県春日部市の施設に移った。
私の住む品川からは1時間30分位の距離だった。
施設は新築で、それまでひとり暮らしの品川のアパートはゴミ溜めのようだったが、
ここは天国のようにとても綺麗で清潔だった。
母は上機嫌で、施設内を探検し、そして近隣のコンビニをチェックしていた。

しかし3年後のある日、母は転倒し、大腿骨を骨折した。
施設から車で15分ほどの市立病院に運ばれた。
この病院で肺炎にかかり、先生からは覚悟してくださいと云われたが、母はシナなかった。
だが、この時のダメージは致命的だった。
骨折の手術は6~7時間かかるのでリスキーだとのこと、私は独断で手術を拒否し母を車椅子生活者にした。

このあたりから母は私のことが判らなくなることが増えてきた。
「どちらさまでしたっけ?」と云うので、
「息子だよ」と答えると、
ブッタマゲタ顔をして「ほんとデシか」と云うので、
「ほんとデシよ」と答えると、
「ウソつくんじゃないよ!」と睨まれた。。。ちょっと怖かった。。。

入院した病院は長期入院は無理とのこと、、、
要するに追い出された。
施設の方も車椅子生活などのケアは無理だとのこと、、、
要するに追い出された。

幸いなことに、近所に長期入院の可能な病院がありそこへ移った。
平成27年の12月1日のことである。
ここが母の終の棲家となった。

この病院に移ってからは、母はいつもうずくまっていて、そのキョーボーな面影はヒトカケラもなくなっていた。

最後に交わした会話は死の数ヶ月前、
「スパゲてぇ〜が食べたい。。。」だった。
その「スパゲてぇ〜」は作ってやることができなかった。
私ら親子らしい最後の会話だった。

或る日の情景~旧東海道界隈02

品川寺のお地蔵様と母
『シナガワデラ』ではなく『ホンセンジ』と読みます。
このお寺は旧東海道沿いの南品川にあります。
創立が大同年間(西暦806~810年)と、とても古く由緒あるお寺です。
私にとっては、このお寺の斜向かいのマンションに母を住まわせていた事があり、母の問題解決の為、このお寺を横目で見ながらため息をつきつつ母の部屋に通ったことが思い出されます。
そんな品川寺に先日、改めて行ってみました。
入るとすぐ下手にお地蔵様がいらっしゃいます。
私はこのお地蔵様をずっと大仏様だと思っていました。
とても大きいのです。
このお地蔵様(地蔵菩薩座像)は、江戸に出入りする六つの街道の入口にそれぞれ一体ずつ安置された「江戸六地蔵」と呼ばれたもので、品川寺には、その第一番、東海道の尊像として、「天下安全(てんかあんぜん)、仏法繁栄(ぶっぽうはんえい)、衆人快楽(しゅうじんけらく)」の祈願のもと奉安されているといわれています。
ちなみに江戸六地蔵の所在地は以下のとおりです。
第1番_品川寺(品川)
第2番_東禅寺(浅草)
第3番_太宗寺(新宿)
第4番_真性寺(巣鴨)
第5番_霊巌寺(深川)
第6番_永代寺(深川)
このうち永代寺の地蔵菩薩像は、同寺が廃寺になったことにより、浄明院(上野)に造立されているとのこと。
このお地蔵様のことを母も、
きっと大仏様だと思っていたことでしょう。
一度説明をしてあげに、
春日部の病院まで行かねばいけませんね、、。

scene-chapter1-9

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話を戻します。

ともあれ私は小学4年生の夏休みに、母と共に東京に出て、親子二人の新生活は始まった。
父の眼から逃れるため、甚だ慌ただしい転居だった。
住居は小田急線の千歳船橋駅で降りて徒歩5〜6分。
木造2階建て、四畳半一間、共同台所、共同トイレ、共同洗い場というアパートだった。
私らは2階の階段を上がって3番目の部屋に住んだ。
新学期が始まるまでには少し間があって、私は久しぶりに母の温もりを満喫したかったが、母は私の転校の手続きやらナンやらが大変だったらしく、非常にキョーボーになっていて、ニャンニャン甘えようとすると、ヒッパタカレたりするので迂闊には近寄れなかった。
余談ですが、
私が少年の頃というのは、子供はよくヒッパタカレていたものである。私も母によくヒッパタカレていた。
念のため云う。
叩かれたのではない。
ヒッパタカレたのである。
ヒッパタクという行為は優しさにアフレテいる。
叩くとか蹴るとかとはマッタクの別物だ。
叩く蹴るには優しさなどミジンもない。
この頃はヒッパタクという行為は日常的で、ありきたりであった。
親だけでなく、学校の先生にもよくヒッパタカレた。
ワルさをすると行き交うおじさんにもヒッパタカレた。
大人達は当たり前のように子供をヒッパタイたのである。
またそれを咎める者など誰一人いなかった。
そうやって子供は社会のルールと礼儀を覚えた。
古き良き時代の話である。
東京での新学期が始まった。
そこで私は仲間外れにあった。
初めての経験だった。
それは小学校を卒業するまで続いた。
このときの経験は私の中の闇として今も消えることはない。

鬱々とした日が続いた。

そんな或る日、母がギターを買ってくれた。

引きこもっている一人息子を不憫に思ってのことであろう。
母はキョーボーで、大ホラ吹きな女性ではあったが、私に対する愛情は一途で、ひたむきで、強く、深く、要するにグレイトな母親であった。
母が買ってくれたギターは、無名のガットギターで、セットで教本がついていた。
練習曲は『荒城の月』『ドナドナ』の2曲だった。
『ドナドナ』は知らなかったので、『荒城の月』で練習した。
弾いてみると、指がイタイ、イタイで、中々上手く弾けなかった。
わが家の財政事情はとてもキビシク、私はそれを認識していた。だからオネダリなんぞ、けしてしない子供だった。
母はそれを気にしていたらしく「まったく、これ見よがしに我慢しちゃっててさぁ。」と、後年それを私に明かしたことがある。
だがこの時ばかりは、仲間外れの息子を哀れんで、無理して買ってくれたギターなのである。
私はとても嬉しかった。
だから頑張って上手く弾けるようになって、早く母に聴かせてやりたかった。
それなのに私は中々上手くならない。
なんだか母に申し訳ない気がしてたまらなかった。
転機が起こる。
私たち親子の、当時の住まいのことは既に記したが、そのアパートの隣部屋に、キレイなお姉さんが独りで住んでいた。
私は友達がいないので、学校が終わるとソソくさと帰宅する。
時間でいうと15時過ぎだが、なぜだかそのお姉さんは、その時間帯にいつもアパートにいた。
私はそのキレイだがアヤシイお姉さんが気になってしょうがなかった。
あるとき、
「ギターやってンの?」アパートの通路でお姉さんは私に話しかけてきた。
私は中1の頃からモーレツに色気づくが、まだこの頃は無頓着だ。
「ウン、やってる。うるさい?迷惑?」
「ンンん、大丈夫。」
「上手く弾けなくて…。」
「お姉さん、ちょっと弾けるよ。教えてあげようか?」
「え、ほんと?」
「おいで。」
私はお姉さんの部屋へとイザナワレテいった。
続く