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scene-chapter1-10

chapter1-10

隣のお姉さんは、名前を『ケイコ』さんといった。

年の頃なら25〜28歳、色白で細オモテ、一重瞼の和美人で黒髪が肩よりも少し長く、ワケめは真ん中で、細くて薄い髪だった。
巨乳ではなかった。
少し鷲鼻だが、素晴らしい鼻の穴だった。
ケイコさんの部屋は同じ間取りなのに明るくて、いい匂いがする部屋だった。
部屋に入るとケイコさんは紅茶を振る舞ってくれた。
紅茶を飲むだなんてひょっとしたら生まれて初めてだったかもしれない。
まっ、そこのところは定かではないが、ともあれ私は生まれて初めて美味しい紅茶を頂いた。
私とケイコさんのお隣サンのお付き合いは、私が中学2年に上がるくらいで終わった。
ケイコさんが引越したのである。
その間、ケイコさんは二人の男性とフンフンしていた。
一人めはボクサー上がりのコワオモテで、アパート内の評判は良くなかった。
母も「あの男には近づくんじゃないよ。」とその男よりもコワオモテな顔で私に云った。
ケイコさんは無口で、一見オシトヤカなタイプであったが、
居着こうとしたそのボクサー上がりに嫌気がさし、
キョーレツな啖呵を切って喰らわせて追い出したんだそうな。
アパート内ではそれが評判となり、ケイコさんは、一躍皆と仲良くなった。
「隣にはあんまり行くんじゃないよ!」と云っていた母もすっかり態度が変わった。
それに拍車がかかる事態が起こる。
ケイコさんの新恋人が、ンまぁ〜、イケメンで、
母は「顔だけじゃないんだ、何といっても気持ちが良いんだ!」
と私には意味不明なことを云ってハジャイでいた。
この彼氏はタイソウな人気で、またたく間にアパート内のアイドルとなった。
残念なことに名前を逸してしまったが、現役の国士舘大学生、
元中距離の陸上選手で、国体にも出場したことがあり、
その時のメダルを私は見たことがある。
あるとき、アパートの共同台所で、
おばさんたちがキャーキャー云っていた。
その彼氏くんが料理をしていたのである。
野菜炒めのようなものを作っていたと思う。
その当時、私は目玉焼きによって料理デビューを果たしていたが、
彼氏くんの作る料理は、
私の概念を根底からホーカイした。
豪快で、山盛りで、男っぽくて、
カッコ良かった。
私は食べ物の好き嫌いが多く、
食べるものといったら、
カレーライス、
ソース焼きそば、
ホワイトシチュー、
ハムエッグ、ぐらいなもので、
母の悩みのタネであったが、
私はこの彼氏がノタマウ、
「男はガンガン食わねばならぬ!」に、
大いに傾倒し、好き嫌いが徐々になくなった。
私はどうやら、
この彼氏と、ケイコさんによって、
大人の男に向かい始めたようである。
続く

scene-chapter1-9

scene-chapter1-9

話を戻します。

ともあれ私は小学4年生の夏休みに、母と共に東京に出て、親子二人の新生活は始まった。
父の眼から逃れるため、甚だ慌ただしい転居だった。
住居は小田急線の千歳船橋駅で降りて徒歩5〜6分。
木造2階建て、四畳半一間、共同台所、共同トイレ、共同洗い場というアパートだった。
私らは2階の階段を上がって3番目の部屋に住んだ。
新学期が始まるまでには少し間があって、私は久しぶりに母の温もりを満喫したかったが、母は私の転校の手続きやらナンやらが大変だったらしく、非常にキョーボーになっていて、ニャンニャン甘えようとすると、ヒッパタカレたりするので迂闊には近寄れなかった。
余談ですが、
私が少年の頃というのは、子供はよくヒッパタカレていたものである。私も母によくヒッパタカレていた。
念のため云う。
叩かれたのではない。
ヒッパタカレたのである。
ヒッパタクという行為は優しさにアフレテいる。
叩くとか蹴るとかとはマッタクの別物だ。
叩く蹴るには優しさなどミジンもない。
この頃はヒッパタクという行為は日常的で、ありきたりであった。
親だけでなく、学校の先生にもよくヒッパタカレた。
ワルさをすると行き交うおじさんにもヒッパタカレた。
大人達は当たり前のように子供をヒッパタイたのである。
またそれを咎める者など誰一人いなかった。
そうやって子供は社会のルールと礼儀を覚えた。
古き良き時代の話である。
東京での新学期が始まった。
そこで私は仲間外れにあった。
初めての経験だった。
それは小学校を卒業するまで続いた。
このときの経験は私の中の闇として今も消えることはない。

鬱々とした日が続いた。

そんな或る日、母がギターを買ってくれた。

引きこもっている一人息子を不憫に思ってのことであろう。
母はキョーボーで、大ホラ吹きな女性ではあったが、私に対する愛情は一途で、ひたむきで、強く、深く、要するにグレイトな母親であった。
母が買ってくれたギターは、無名のガットギターで、セットで教本がついていた。
練習曲は『荒城の月』『ドナドナ』の2曲だった。
『ドナドナ』は知らなかったので、『荒城の月』で練習した。
弾いてみると、指がイタイ、イタイで、中々上手く弾けなかった。
わが家の財政事情はとてもキビシク、私はそれを認識していた。だからオネダリなんぞ、けしてしない子供だった。
母はそれを気にしていたらしく「まったく、これ見よがしに我慢しちゃっててさぁ。」と、後年それを私に明かしたことがある。
だがこの時ばかりは、仲間外れの息子を哀れんで、無理して買ってくれたギターなのである。
私はとても嬉しかった。
だから頑張って上手く弾けるようになって、早く母に聴かせてやりたかった。
それなのに私は中々上手くならない。
なんだか母に申し訳ない気がしてたまらなかった。
転機が起こる。
私たち親子の、当時の住まいのことは既に記したが、そのアパートの隣部屋に、キレイなお姉さんが独りで住んでいた。
私は友達がいないので、学校が終わるとソソくさと帰宅する。
時間でいうと15時過ぎだが、なぜだかそのお姉さんは、その時間帯にいつもアパートにいた。
私はそのキレイだがアヤシイお姉さんが気になってしょうがなかった。
あるとき、
「ギターやってンの?」アパートの通路でお姉さんは私に話しかけてきた。
私は中1の頃からモーレツに色気づくが、まだこの頃は無頓着だ。
「ウン、やってる。うるさい?迷惑?」
「ンンん、大丈夫。」
「上手く弾けなくて…。」
「お姉さん、ちょっと弾けるよ。教えてあげようか?」
「え、ほんと?」
「おいで。」
私はお姉さんの部屋へとイザナワレテいった。
続く

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オヤジの情景
chapter1-7

父は、頭脳明晰、やさ男で、それでいて頑固でワガママな男だった。

イイとこのボンボンで、慶応大学を一発入学、地元では神童と謳われていたらしい。
慶応在学中はテニス選手としてもブイブイいわせて、銀座の街を肩で風切ってカッポしていたという。
一方母は、
意気軒昂、武闘派で、それでいてビビリで、涙もろい女性だった。
私の大好きな祖母の長女だが、祖母が再婚するとき、「子持ちワカメじゃいけない」ってんで、田舎の置屋にオッポリ投げられた。
詳細については、大ボラ吹きで多弁な母だがチンモクを通している。
置屋という場がそうさせたのであろうか、日本舞踊家を夢見る少女になった母は、
ビビリのくせに、10代で家出同然で上京。
20代になってからは銀座でホステスをしながら夢を追いかけていたという。
そうした頃、
父と母は出逢った。
二人はハゲシク恋愛し、
そして駆け落ちした。
父が21歳、母は20歳だった。
ずいぶん後になってからだが、2人から個別に、当時の話を聞いたことがある。
母曰く「東京に出て2年目くらいに、踊りの関係の人から銀座の高級クラブを紹介されてさ。仕方がなくホステスさ。あっという間にNo1になって、派手な生活をしたものだよ。お父さんはその店の常連で、偉そうにしてたけど、実はウブで…。ンまあ、つきまとわれて困ったものさ…。」と云っていた。
父曰く「お母さんが銀座でホステス?違うよ…。銀座は銀座でも新橋寄りのスナックでバイトしていたんだよ。ウブでケナゲで可愛い娘だったなぁ。ンまあ、ちょっとジャジャ馬だったけど、俺に夢中でね。つきまとわれて、大変だったよ…。」と云っていた。
ともあれ父と母は出逢い、そして大恋愛の末、駆け落ちする。
そのまま父は大学を中退、神童と謳われたエリートは『駆け落ち』というカンバンを背負って、
母とともに世間の荒波の中へと打って出たわけである。
だけどヤッパシ世間の荒波はキビシカッタ…。
父と母の駆け落ち生活は1年くらいで終わりを遂げた。
ようするに二人は、父の実家に許しを乞うて結婚したのである。
まぁ思い切って駆け落ちした割には呆気なく結婚したものである。
これは父の仕業であろう、イイトコのオボっちゃまの必殺技で、ありがちなことである。
ところで、この駆け落ち。もうひとつ逸話がある。
続く