「オヤジの情景」カテゴリーアーカイブ

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世田谷区立船橋中学校(現在の船橋希望中学校)に、
文化祭シーズンがやってきた!
1年生の私にとっては当然、初めての文化祭である。
体育祭が終わると、学校全体がヤレヤレという感じになる。
これはつまり教師側が醸し出すフンイキで、どっこいしょと腰掛たムードになるのである。
ところが学生側は違った。
ナンだか、ワクワク、ドキドキした感じになってきて落ち着かない雰囲気になる。
体育祭は教師たちの指示のもと、予行練習なんかもあって、
学生側からしたら、なんとなくやらされてる感じで、
シラけたところがあるのだが、ソレが文化祭は明らかに違った。
ソレは何かというと、つまり学生中心に物事が行われるのである。
今の時代ではあり得ないことであろう。
このころは、教師側もおおらかなもので、かなり自由にやらせてくれたのである。
ホームルーム(HR)という授業科目があって(今あるのかな…)、
この授業によって文化祭のことが色々と決められてゆくのだが、
1年坊の我々は初体験なので、まずは担任の先生がエスコートして下さるのだが、
ほんとに口出しするのは最初だけで、あとはいい意味でテキトーにやらせてくれるのだ。
先ずは実行委員の選出だ。
当然皆しりごむ。
私はこの頃、フライングレシーブを連発し、何かといえば(何もないんだけど…)大声を張り上げて元気一杯だったが、
ここでは『シジミ』のように小さくなり、無言の殻の中に閉じこもり沈黙していた。
幸いにも実行委員は簡単な選挙によって、フサワシイ同級生が選ばれ、そしてタダシク運営される運びとなった。
残念なことに、この時、私のクラスが何をやったのか、私がどんなハタラキをしたのかは、全くもって失念してしまった。
だが私はこの1年生の文化祭を生涯忘れない。
後の私の人生を決定づけたと云って過言ではない経験をしたからである。
私は生まれて初めて、生バンド演奏を目の当たりにしたのである。
それは大音量で私の度肝をぶち壊した。
放課後にトツゼン上級生の教室で、生バンドのリハーサルが始まったのだ。
私は、というか私のクラス全員がブッたまげて上級生の教室に向かった。
そこで観た情景は、今、思い出しても胸が高鳴る。
3点セットのドラムにエレキのギターにベース、、。
テレビのグループサウンズのような演奏光景が目の前で行われた。
皆口々に『アッと驚く為五郎!』と叫んだのは、云うまでもない。
続く

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オヤジの情景~chapter1-23
私は体育の授業では自重することにしたが、部活では胸元が黒くクスみ、ボロボロになるまでフライングレシーブを連発した。
そして脚光を不動のものにした。
 
女子は私にカンセイを挙げた。
男子は私にウンザリした。
私はこの頃から自我が目覚め、スルドク色気づいてゆく、、。
なにせ、、。
女子同級生からは『カッコイイ』、
女子上級生からは『カワイイ』と、ンまぁ、、向かうところ敵無しであった。
オレってモテるんだゼェイ!と勘違いしても仕方のないことであろう。
なにせ生まれて初めて脚光を浴びたのだから、、。
しかも周りの女子は刻々と美しくなってゆく。
小学生時代の女子は、単なるケンカ相手だったが、中学生になると、ソレが異性になるのである。
ソコハカトナク男になりつつある私は、当然のごとく色気づくのである。
さらに部活の方でも、異変が起きた。
どうしたわけか良い塩梅に、部員が辞めていってしまい、なんと(9人制だが)私はレギュラーの座を獲てしまったのである!
ヒトというのは波に乗って勢いづくと幸運が重なる。
私はこうしたことを現在までに3度ほど経験したが、その最初の経験は、あきらかにこの頃のこの時のことである。
だが、『勢いづく』ということは、『いい気になる』ということでもある。
もちろん、この頃はソレがわからない。
また、『いい気になる』ということは『無礼になる』ということである。
私は『穴があったら入りたい』と思うことの多い男だが、その始まりはアキラカに、この頃であった。
もちろん、この頃にソレがわかるはずもない。
私は女子からの人気は上がったが、男子からはサンザンな評価をくだされていった。
私は今でも友達の少ない男だが、その片鱗はこのあたりからであろう。
だが、最低最悪なバカ野郎にはギリギリでならずにすんだようだ。
それは紛れもなくバレーボールのおかげである。
スポーツは、とても大切なことを教えてくれる。
私はその多くを先輩達から教わり、同級生から教わった。
そして秋になった頃、
私はスッカリご無沙汰していたギターと運命的な再会をする。
それは我が中学校に、文化祭シーズンやって来て、
色気づいた私にスルドク刺激を与えたからに他ならない。
続く。

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chapter1-22
我々バレーボール部の必殺技といえば、それはやはり『フライングレシーブ』であろう。
特に私のような小柄で軽量級の選手には、これ以上の技はないといって過言ではない。
何事にも形から入る私は、当然のごとくシッカと研究し、スルドい『フライングレシーブ』を習得するため、あらゆる努力を惜しまなかった。
習得できたとなると見せたくなるのが人情だ。
私は何かといえば『フライングレシーブ』を連発するようになった。
体育の授業のバスケでは、ボールがコートから出そうになると、フライングレシーブでボールをコートの中に戻した。
女子から歓声があがった。
私はタイヘン満足した。
走り高跳びもフライングレシーブで跳び、自己記録を更新した。
男子からドヨメキがあがった。
私はタイヘン満足した。
走り幅跳びはフライングレシーブで跳ぶと距離が損することを知った。
男子も女子も失笑した。
私はタイヘン恥ずかしかった。
50m走ではフライングレシーブでゴールしようとしたが怖くてできなかった。
これはやらなくて良かった。
体育の授業で、フライングレシーブを連発する私を、体育の先生が堪りかねて、「これ以上やったら張っ倒す」と低い声で囁いた…。
この体育の先生はバレーボール部の顧問監督で、とてもデンジャラスな先生であったので、その時私はチンモクし、フライングレシーブは控えようかなぁと思った。
いつだったか、私は授業中に、校内放送でこの先生に名指しで保健室に呼び出されたことがある。
何事かと急いで行ってみると、先生は保健室で焼き鳥を食っていらっしゃって「この焼き鳥美味いぞ、食え!」とおっしゃった。
私は焼き鳥を食った。
とても美味しかった。
先生の傍らには透明の液体が入ったコップあって、サスガにそれを私には薦めなかったが、先生はグビグビそのトウメイなエキタイをお呑みになっていた。
先生はご機嫌だったが、私は恐れオノノイた。
そんなこともあって、私は意味もなくフライングレシーブをしてはイケナイと心の底から反省した。
しかし、私のフライングレシーブは、意外な展開を見せた。
この年(1969年)10月からTVドラマ『サインはV』が放送スタート、うちの体育館がロケに使われたりして、船橋中学校はにわかにバレーボールブームとなったのである。
で、私のフライングレシーブ…。これが口コミで広がり、私はちょっとした有名人になったのである。
ナンにでもいえることであるが、シツコクやり続けるということは大事なのである。
挙句に私のフライングレシーブを観たさに女子が部活を見学しに来くるようになった。
お箸事件の後、私はゴキブリのように嫌われていたが、名誉を挽回する絶好のチャンスに巡り会えたわけだ。
私は『 機を見るに敏』というモンゴンをこの時初めて知った。
また私は『 千載一遇』というモンゴンをこの時初めて知った。
続く